(聞き手)
復旧・復興に向けて、お考えがあれば教えてください。
(村山様)
それぞれに進んでいるでしょうから、取り立ててはありません。あるとするならば、まだまだ、防災・減災について取り組んでいかないといけないでしょうから、その事だけはしっかり考えてもらえれば良いと思います。
これだけ時間が経っているので、
子どもたちのアフターケアを考えた時に、最初は復興の動きが遅いのではないかと思いました。
海沿いにある県の公園である仙台港多賀城地区緩衝緑地は、いつまで経っても復旧しませんでした。
野球場、陸上競技場、テニスコートなどが入っている公園で、私たちも学区の中に入っているので、よく使わせてもらっていました。
それがいつまで経っても再開せず、震災後、1年後くらいに行った時にも、まだ、打ち上げられた船や車がありました。
今は完全に無くなりましたが、予算の問題もあったでしょうから、当時はしょうがないと感じていました。
ですが、
子どもたちがのびのびと運動できる場所の整備をこれからもっと加速させてもらえれば、癒しの場所に出来るのではないでしょうか。
(聞き手)
憩いの場をもっと作っていく必要があるという事でしょうか。
(村山様)
ニュースなどでもよく言われていますが、最初に必要なもの、何日か経った時に必要なもの、それから更に数日経って必要になるものは全て違います。
その点を考えた場合、今は
メンタル面の課題が残っているので、特に小さい
子どもたちがのびのびできる場所を整備して、提供していく事が最後に残っているのではないかと思っています。
子どもたちだけでなく、仮設住宅に入っている方を含めて、皆が集える場があれば良いのではないでしょうか。
(聞き手)
ありがとうございます。
木村様は、多賀城市の今後の復旧復興に向けての思いやアドバイスはございますか。
(木村様)
多賀城市のホームページなどを見ますが、復旧復興の状況が1つ1つ丁寧に示されているので、多賀城市が努力しておられるという事は常々感じています。
おかげ様で、東豊
中学校も被害を受けた部分を直して頂きましたので、感謝している部分はあります。
ですが、当然、進んでいない部分もあります。
現実的にそれらを考えた場合、もう10年、20年の単位で考えていくしかないと思っています。
多賀城市としての考えもあるでしょうし、県や国の考え方もあるでしょうから、それらに従って問題点を1つ1つ解決していくしかありません。
私がこういう事を言っていいのかわかりませんが、性急な復興よりは、ゆったり構えて長い目で見ていければ良いのではないかという考えは常に持っています。
もちろん、仮設住宅に住んでおられる方々にしてみれば、早い復興を望まれている部分もあるのでしょう。
ですが、優先順位もあるでしょうから、ゆっくり考えていくしかないのではないかと思います。
(伊藤様)
仮設住宅に入っている生徒も知人もいますが、だからといって元の生活レベルに一気に戻すのはなかなか難しい事です。
多賀城市は住めない場所というのは特にないようですが、代わりに、生活を再建させるお金の問題が一番大きいのではないでしょうか。
かといって、支援状況によっては、国の財政がパンクするのではと思うこともあります。
復旧復興は個人の問題ではなくなってきているので、多賀城市全員、あるいは宮城県全員が一緒のレベルに戻していくには時間が掛かるでしょう。
復旧復興に向けての考えといっても、あまり丁寧に皆さんの意見を聞いていると遅くなってしまいます。
だからといって、急いでも、今度は、そのスピードに来られない方も沢山出てくるでしょう。
私はそこで考えが止まってしまいます。
(聞き手)
先ほど、村山様から憩いの場というお話が出ましたが、その点について、どうお思いでしょうか。
(伊藤様)
東北楽天ゴールデンイーグルスの優勝で思いましたが、一瞬でも今のつらい状況を忘れられる時間があると良いと思いました。
その点でいえば、体を思いっきり動かせる場所があったり、図書館に行って本を読みふける事が出来たり、音楽を奏でる事が出来る場所があったりすると、
子どもたちには良い影響を与えることができると思います。一時でも、被災している境遇を忘れて、そういった事に打ち込める場所があると良いと思います。
(聞き手)
後世に伝えたい事はございますか。
(村山様)
とにかく、震災の事を忘れないでほしいという思いがあります。
大げさな話や行動によって、逆に津波警報の信用性が薄れ、行動できずに亡くなった方もいるので、その辺りの教育の仕方や家庭内での話し方を考えることが必要です。
また、家族で離ればなれになった時の集合場所だけは、常に決めていてもらえれば一番の対策になります。
震災時、通信網がほぼ完全に寸断されましたが、もしもの時の集合場所を決めていたからうまく助かったというご家族もいるという話を聞きました。
当時、電気は、国道45号から西側は比較的早期に明かりが戻りましたが、東豊
中学校は逆側でしたので、「ああ、向こうは電気が点いたのに、こっちはまだ電気は来ないのか」と思った事を覚えています。
電気がないと通信が来ないので、どこに行くか、家族や職場内できちんと決めてあれば一番良い事です。
そういった啓蒙が出来れば、また違ってくるのかもしれません。
震災でそういう事があったという事を
風化させるのだけは避けねばなりません。
また、これから生まれてくる
子どもたちにもきちんと伝えていく必要がありますが、その具体的な方法まではまだ考えられません。